バレエリュス展@新国立美術館、行って来ました。
9月1日までなのにずるずると見に行けず。でも今日しかない!と思ってやっと。
ちなみに言えば先月仕立てた浴衣も取りに行けていない。夏もう終わるやないかー。笑
展覧会自体はお勉強のつもりで行ったので、とても興味深いものでした。
バレエリュス(ロシアバレエ団)はパリで活動していたので当たり前なんですけど、
ロシア文化を見に行くというよりフランス文化を見ているような気分でした。
展示されているブックレットとかもフランス語だったしね。
そして、ロシアの民族衣装をデフォルメしたような衣装などは、
ロシア人が、ロシアを外にどう見せるべきか(どう見せたら外国人にうけるか)という考えが透けて見えて、
そしてヨーロッパの人たちがロシアに対してどういうイメージを持ち、こういう舞台に何を求めていたかも見えておもしろかったです。
それに当時パリで活躍していた美術系の芸術家の人たちの才能が混ざって。
これは当時の人たちはバレエを見るだけではなくて、衣装や舞台美術を見るのも楽しかっただろうなぁと。
ところで、私としてはやはり音楽のことが気になるので。笑
今回、お、ちゃんとしてる、と思ったこと。
ロシア5人組の1人、ボロディンの《イーゴリ公》というオペラの中に有名なバレエシーンがあって、
(日本では「だったん人の踊り」と呼ばれています)
バレエリュスでもこのシーンを組み合わせたレパートリーがあったので、今回その展示もあったのですが、
それをちゃんと原語通りに「ポロヴェッツ人の踊り」と訳してあったのです。
最近はこれをちゃんと訳す動きも広まってきましたが、
やっぱり「ポロヴェッツ人の踊り」と言ってもまだまだ通じない。
「あの、ほら、いわゆるだったん人の踊りね」って講義でいつも言うのがちょっとめんどくさい。笑
だったん人というのは、タタールの中国名(韃靼/だったん)が日本に入ってきたものなのですが、
タタール人はモンゴル系の遊牧民族の総称で、
ポロヴェッツ人はトルコ系の遊牧民族なので、実はかなり違うのですね。
1200年代前半、チンギス・ハンとその子孫率いるモンゴル軍がルーシ(ロシアの前身)に襲来し、その後約240年にわたりルーシを支配した「モンゴル=タタールのくびき」の時代が終わったころから、
アジア系異民族や異教徒をタタールと呼ぶようになり(もともとタタールの語源は「他の人々」という意味)、
トルコ系もモンゴル系もみんな「タタール」とくくられるようになったらしく。
おそらく、日本でこの曲名を訳す時に、ポロヴェッツ人ってなにかね?タタール人の仲間らしいよ?で、
だったん人の踊り、と訳されたのではないかと思うのですが。
《イーゴリ公》の中でも、ポロヴェッツの長(汗)の一人であるカンチャク汗が、
ルーシの一部、ノヴゴロド=セーヴェルスキーの領主であるイーゴリ公を、
捕虜としてではなく敵国の長として認め丁重にもてなすシーンでこの踊りが踊られるのですが、
ポロヴェッツとルーシが手を組んでモンゴル軍に抵抗したこともある歴史も考えると、
このシーンはとても印象深いものとして見ることが出来ます。
(そしてそれが遠い日本で、だったん人の踊りと名付けられてしまうとは…無念だわ)
ということで、動画埋め込んでみました。
これはゲルギエフ×キーロフオペラ。
講義でこのDVD流したら、大学生たちが終わりで一緒に拍手したくらい、気合十分。笑
このテンポアップで良く最後踊れたねー。やっぱプロだ、と見るたびにドキドキします。笑
あー、ロシアオペラ、観に行きたいなぁ。モスクワ住んでた時にもっと観ておけばよかった。
2014年08月30日
2014年08月28日
コンサート@赤坂、終了。
↑写真が逆さに見える方もいらっしゃるらしいのですが、直し方が分かりません。ごめんなさい!そのうち!
散々ここで告知しました(笑)ジョイントコンサート、終了いたしました!
無事、とは言い難いですが、温かいお客様たちとベヒシュタインの素敵な響きに助けられ、
最後まで弾き切ることが出来ました。
いろいろ演奏に関する反省はありますが、それはまた次に生かすとして。
今回は、東北大や東京音大の先輩同期などなど、
懐かしい昔の知り合いたちが聴きに集まってくれました。
ピアノが専門じゃなかった頃の自分とか、
モスクワ行く前の自分とかを知ってくれている人たちが居てくれるというのは、
何だか照れくさいような、ほっとするような。
学歴とか職歴っていうのはある意味鎧みたいなもので、
それを背負わせてもらった分、それに見合う自分でいなきゃと思う部分もある。
私は特にあれやこれや手当たり次第にごてごてと着てるからなぁ。笑
そしてそれをもうちょっとうまく着こなせたらという気持ちはあるので。笑
そういう中で、何者でもなかった頃の自分を知ってくれている人たちがいてくれて、
今の私の演奏を聴きに来てくれて、というのは、鎧がふっと脱げる気分。あ、演奏後ですけどね。笑
そして、こんな私をオンタイムで見守ってくれる友人たちもいて。
以前、モスクワから完全帰国するのをとても迷っていた時に、
モスクワの先輩で先に完全帰国していた良き親友が、
「まきちゃん、どこにいるかじゃなくて、誰といるかだよ」って言ってくれて。
その言葉にとても納得する状況でもあり、日本に帰ってくることに決めたのですが。
日々、本当にそうだなと思います。
私ほんとーーに不出来な人間なのですが、周りに恵まれていることだけは胸を張れる。
今読んでくださっているあなたもその「周り」のうちの一人、ですよ。
本当にありがとうございます。いつもいつもご迷惑おかけしますが、
どうぞ今後とも懲りずに温かく見守ってやって下さいね。笑
お写真は共演した栄愛ちゃんと、コンサート後の1枚。
カメラが複数あって2人してどこを見ていいかわからなかった、の顔。笑
2014年08月25日
尊敬と好きはちょっと違うんだって
…というのは私のロシア語の先生が言ってたのです。笑
ロシア語では、「尊敬する○○さん」とか、「親愛なる△△」とかそういう接頭辞的なものをよく使うんですが、
ロシア語の先生に「尊敬するリディア・アレクセーエブナ」←先生の名前、と言ったら
ちょっぴり複雑そうな顔をして「マキコは私を尊敬してるのねそうなのね」と言うので、
尊敬してますよそりゃ、と言ったら、
「もう少し深い関係かと思ってた、尊敬と好きはちょっと違うじゃない」とか言うので、
先生かわいいなぁと思いました。笑
そして先生の言いたいことはなんだか分かる。
尊敬というのはある意味その人の素晴らしい面を崇めてるだけなのかもしれない。
好きというのは、その人の欠点もひっくるめて愛おしいということなのかな。
そして意外とロシア人もそういうので距離感を計ってるんだなぁと改めて思った時でもあり。
まぁロシア人の呼び方の話はチャイコフスキーの書簡集を読んでておもしろかったので今度書くとして。
尊敬する作曲家はバルトークだと前々回書きましたが。
好きな作曲家を1人あげろと言われたら、ブラームスです。またロシア人じゃないのか。笑
単純にと言ったらおかしいですが、ブラームスを弾いてると落ち着くんです。
演じなくてもいいというか。そのままの自分で弾いてもしっくり来る率が高いというか。
まぁパガニーニバリエーションとかは頑張らないと無理ですけど。そしてたぶんもう弾かないけど笑
モスクワで勉強していた時、台湾人のとっても思慮深い友人ピアニストが、
「たとえばベートーヴェンの3番ソナタがコンクールの課題曲で、あの明るいソナタを一番よく弾いた人が1位になるんだとしたら、世界で一番明るい性格のピアニストが一番上手いということになるのか(つまり自分はピアニストに向かないんじゃないか)」と悩んでて、かわいいなぁと思ったんですけど(笑)、
それに私は「その例えで言うと、一番明るさを演じることが出来たピアニストが一番上手いってことだからね、良い演じ手にならなきゃいけないよね」って答えたのだけど。
どんな曲でも出来るだけ素敵に弾きたいし、
そのためにいろんな人格を想像して、自分の中にないキャラクターも演じたりするけど。
そういう意味ではブラームスを弾くときは、そういうことをいろいろ考えなくても私の場合比較的大丈夫。
特に後期の小品集あたりは、心の奥底の孤独感に染み渡る感じがして。
ブラームスを弾いていると、元気をもらうわけじゃないんだけど、ふと隣にいてくれる気がして。
共感してもらえたが故に上を向ける、みたいな感じかなー。(分かりにくいかな)
なぜかブラームスはピアニストでもあったくせにピアニストに優しくないところも多く、
これ弾けると思って書いたの?みたいな弾きにくいところがたくさんあるし、
一部の人にはクサいと言われるような節回しもあったり、
あと二面性が激しすぎていきなりハンガリー舞曲とか書いちゃったりするけど。笑
でも好き。なんだか好き。笑
ということで、明日赤坂でブラームスも一曲弾きます。名曲op.118-2です。
もしお時間ございましたらぜひご来場下さいね〜。
ロシア語では、「尊敬する○○さん」とか、「親愛なる△△」とかそういう接頭辞的なものをよく使うんですが、
ロシア語の先生に「尊敬するリディア・アレクセーエブナ」←先生の名前、と言ったら
ちょっぴり複雑そうな顔をして「マキコは私を尊敬してるのねそうなのね」と言うので、
尊敬してますよそりゃ、と言ったら、
「もう少し深い関係かと思ってた、尊敬と好きはちょっと違うじゃない」とか言うので、
先生かわいいなぁと思いました。笑
そして先生の言いたいことはなんだか分かる。
尊敬というのはある意味その人の素晴らしい面を崇めてるだけなのかもしれない。
好きというのは、その人の欠点もひっくるめて愛おしいということなのかな。
そして意外とロシア人もそういうので距離感を計ってるんだなぁと改めて思った時でもあり。
まぁロシア人の呼び方の話はチャイコフスキーの書簡集を読んでておもしろかったので今度書くとして。
尊敬する作曲家はバルトークだと前々回書きましたが。
好きな作曲家を1人あげろと言われたら、ブラームスです。またロシア人じゃないのか。笑
単純にと言ったらおかしいですが、ブラームスを弾いてると落ち着くんです。
演じなくてもいいというか。そのままの自分で弾いてもしっくり来る率が高いというか。
まぁパガニーニバリエーションとかは頑張らないと無理ですけど。そしてたぶんもう弾かないけど笑
モスクワで勉強していた時、台湾人のとっても思慮深い友人ピアニストが、
「たとえばベートーヴェンの3番ソナタがコンクールの課題曲で、あの明るいソナタを一番よく弾いた人が1位になるんだとしたら、世界で一番明るい性格のピアニストが一番上手いということになるのか(つまり自分はピアニストに向かないんじゃないか)」と悩んでて、かわいいなぁと思ったんですけど(笑)、
それに私は「その例えで言うと、一番明るさを演じることが出来たピアニストが一番上手いってことだからね、良い演じ手にならなきゃいけないよね」って答えたのだけど。
どんな曲でも出来るだけ素敵に弾きたいし、
そのためにいろんな人格を想像して、自分の中にないキャラクターも演じたりするけど。
そういう意味ではブラームスを弾くときは、そういうことをいろいろ考えなくても私の場合比較的大丈夫。
特に後期の小品集あたりは、心の奥底の孤独感に染み渡る感じがして。
ブラームスを弾いていると、元気をもらうわけじゃないんだけど、ふと隣にいてくれる気がして。
共感してもらえたが故に上を向ける、みたいな感じかなー。(分かりにくいかな)
なぜかブラームスはピアニストでもあったくせにピアニストに優しくないところも多く、
これ弾けると思って書いたの?みたいな弾きにくいところがたくさんあるし、
一部の人にはクサいと言われるような節回しもあったり、
あと二面性が激しすぎていきなりハンガリー舞曲とか書いちゃったりするけど。笑
でも好き。なんだか好き。笑
ということで、明日赤坂でブラームスも一曲弾きます。名曲op.118-2です。
もしお時間ございましたらぜひご来場下さいね〜。